2018年10月31日水曜日

3高から3平へ

かつてバブル経済時代にはモテる男の必須条件は「3高」の高収入、高学歴、高身長とも言われましたが、低成長時代になってからは「3平」の平均収入、平凡学歴、平穏さが好まれているようです。と同時に、女性も男性と同じように共働きする時代になったので、かつてのような単なる憧れで一緒になる時代ではなくなったとも言えます。昨日も皇族の結婚式をTVで拝見しましたが、両家の釣り合いは将来を考える上でも大変重要であるわけです。どんなに相手が経済的に恵まれていても、お互いの平穏な生活が営まれなければ双方に幸福感は得られません。相手の外見に拘り過ぎるとその人の内面を見過ごすことがあります。ビジネスの現場でも、お客様と接して双方に感じるのは相手の人間性です。信頼されることは容易なことではなく、繰り返される付き合いの中から自然とお客さまの心の中に生まれるものです。社会に出たら高学歴も育った家庭の経済力も容姿も関係なく、その人自身がどんな人間なのかが問われるのです。人としての実質を見極めることが大切です。

2018年10月30日火曜日

教育現場

親しい友人には教員生活を終えて引退生活している人もいれば、未だに嘱託で働いている人も何人かいます。先日、福岡県内の中学校で嘱託勤務している人と会って話しましたが、仕事は新任教員の教育係で一緒に教室で勤務しているようです。現在は保護者への対応も、若い教員は精神的ダメージを受けてうつ病になる方が多いとのことで、ベテラン教師の存在が欠かせないのです。一昔前には考えられない程の教育現場もあり、荒れた学校では保護者の対応で忙しく、授業どころでは現場も多々あると聞きます。現在の彼の勤務地は新興住宅の中にある中学校なので、高所得層が多く比較的に家庭も静かで、荒れる生徒もいなく楽だと話していました。一方、小学校の教員はまだ無邪気な生徒を教える立場なので、教員としても精神的負担な負担は軽いらしいです。現在は中学校も高所得層は殆ど私立中学へ入る時代なので、公立中学校の質を上げるのは簡単ではないようです。経済的な格差がもたらした現代社会の痕跡の一部かもしれません。

2018年10月29日月曜日

理論と実践

「言うは易く行うは難し」という諺があります通り、頭では理論が分かっていても、いざ実践となれば経験がないと経営は覚束ないものです。創業して企業を成長させるのは容易ではないというのは、経験を通して自分なりの理論を持つので困難さも分かります。先日、ある上場企業の創業者と久しぶりにお会いして会話をする機会を得ましたが、御高齢ながら現在も事業欲が絶えない一面を拝見し、大先輩の凄さを感じました。創業者に依り、健康度の違いは後々企業経営に大きく影響を与えます。同業界で、私が古くから知る創業者が長年導いて来た企業を、前者の上場企業が買収したというニュースについて創業者に打診してみたのです。年々創業者も歳を取っていきますので、企業を将来に向けてどのようにバトンタッチしていくかは口で言うほど簡単なことではありません。経営者意識を持ちながら、小さなことの積み重ねにより、周囲が経験を通して成長してくれることを期待しています。

2018年10月25日木曜日

企業は人なり

今更ながら会社においては当たり前の話ですが、私自身が長年、会社経営において苦労してきた最大の課題が人材でしたので取り上げてみました。実はこの10年、弊社は急速に右肩上がりで成長しており、私自身が驚いている次第です。潜在能力を有する社員が、外部から採用した経営幹部による地味な指導で漸く育ってきたからです。「類は友を呼ぶ」で上層部の人材が育てば年々入社してくる人材も計画的に育ちます。人材が育つと能動的な働きを自然とするようになります。組織はなるべくフラットにして目的意識を共有すれば、手段となる行動は社員自らが取るようになります。弊社の特徴は、社内でプロジェクトが暗礁に乗り上げ、窮地に陥った時には、リーダーが全社的にSOSを呼びかけると、全員が自分の業務を終えて、仲間のプロジェクトとして救援に駆けつけてくれる団結心があります。つまり、組織に一切の壁が無いのが弊社の特徴です。このような社員の人心は一朝一夕には出来上がったものではありません。まだまだ社員の成長の伸び代は今後も尽きないと私は見ています。一にも二にも企業は人材次第だと漸く私自身が気が付いたのです。これからも人材育成を第一に考えて、100年企業の経営をしていきます。乞うご期待頂ければ幸いです。

2018年10月24日水曜日

40年の節目

78年の日中平和友好条約締結から40周年の節目が到来しています。学生で青春時代の真っ只中だったので、当時の状況は良く覚えています。当時の田中角栄元首相が近年出版物を始め、様々なメディアで脚光を浴びていますが、歴代の首相を見ても別格の人物だったように思います。首相と言えども人間ですから、いくら能力があっても政敵にやられてしまうこともあります。しかし、当時の政治家はそれぞれの方が、歴史観と強力な個性を持ち、客観的には人間的な魅力も感じました。国交以来、長年ギクシャクが続いていた日中関係も、漸く、トランプ政権の強引な外交のせいなのか、政府間で歩み寄りが見えてきました。中国も世界第2位の経済大国となりましたので、世界のリーダーとして恥じない行動が求められています。世代が変わり、時代が変わり、社会が大きく変わるには最低でも40年は掛かるような気がいたします。つまり、人間の営みが常に時代の反映に左右しますので、地域社会も企業社会も変化するには同様に長い年月が掛かります。車社会がエンジンから電動に変わるのも、長年の時代の節目というものを感じます。長期的な時代を見据えた国家なり、社会なり、企業なりのあり方を人間同士がじっくり考えられたらいいですね。

2018年10月23日火曜日

ワクワク感

先日あるセミナーで講師が「人が幸福感を味わう時とはどんな時でしょう?」と質問した時に、ある方が「ワクワクした時」と回答したら大正解でした。自ら日常の仕事や生活でワクワクする体験の場を作ることができれば良い訳です。私自身はそのような場を作って日頃から行動している方です。時には、翌日の予定が楽しみでワクワクして前夜眠れないこともあります。楽しみなのは、事物を見聞することもありますが、様々な人と接することが楽しみなのです。講演を聴くだけで終わりというのは、消化不良で何か大切な忘れ物をしたような気分になります。私の知人にも、行動力があり、多くの経験を通していつもワクワクした感情を表現される方がいます。事務所の中での仕事においても、何か新しい発見や面白みを見つけるとワクワクする気分を得られるのではないでしょうか。毎日、変わらないような仕事でも、ストーリーの小さな変化や驚きはある筈です。ワクワク感を求めて毎日の仕事に向かうのと、苦痛や面倒な気持ちで向かうのでは幸福感が随分違います。小さな楽しみを期待して毎日を過ごすことにより、人は生き甲斐、働き甲斐を感じるようになるのではないでしょうか。

2018年10月22日月曜日

仲間

最近、歳を取ったせいなのか中学・高校の同級生や大学の同窓生と会いたい気持ちになります。こちらが一方的に懐かしく会いたいだけの話ですが、双方に長らく連絡を取り合っていないと会える人も限られてきます。幸いにして年賀状を交換している大学時代のメンバーもいるので、少人数ながら最近になって同窓会を開き始めました。高校時代の仲間は、ふるさとへ帰省することが決まればすぐに幹事が気を利かせてくれて10名くらいは集まってくれますが、大学の仲間は全国各地にバラバラなので、そう簡単に会う機会を作れません。最近、漸く私の方で連絡網を作って、首都圏に住んでいるメンバーの一部と同窓会を開催し始めています。先日もお互いに40年ぶりの再会を果たし、仲間も連絡先を捜し当てた私に大変感謝してくれました。中学も高校も大学も、連絡先さえ発見できれば再会の手法は考えられるのですが、個人情報も容易に入手できない世の中になったので、不便を感じているのが現状ではないでしょうか。これからの楽しみの一つに、遠方の仲間を訪ねるのと城廻を兼ねてみたいと考えています。

2018年10月21日日曜日

結願

本日は日和も良かったので、これまで巡礼を続けてきた鎌倉三十三観音巡りの結願を無事終えました。鎌倉のお寺巡りには何度も出かけていますが、2年前から始めた御朱印帳を持参しての参拝は初めてでした。本日、回り終えたところで、関西の親戚から電話があり、本日入院して明日手術だという知らせがありました。約1週間から10日くらいの入院ですが、本日の結願と親戚の入院が何か縁のようなものを感じました。無事に手術が終わり、晴れて退院してくることを祈りたいと思います。

2018年10月19日金曜日

地方イベント

昨日から今日にかけて、あるメーカー主催の地方イベントへ参加しました。年に一度の全国的な催しですが、また普段と違った見聞に触れるのが楽しみで参加しました。地方からの参加者を見ると、全国的にも経済は人手不足ながらも順調に回っているような気が致します。経済の循環を考えると、毎年持ち回りで開催される事で地方への寄与にもなると考えられます。自分自身が健康であれば、特別な用事でもない限り翌年も参加できて、また全国の方とも再会できるわけです。まだ紅葉には早いですが、秋晴れの天候にも恵まれた今回のイベントでした。

2018年10月17日水曜日

人材不足

先日、タクシーに乗りましたら、運転手の方が乱暴運転をして追い越しをかけている車を見て「警察が取り締まりの仕事をしていない」とぼやいていました。イラついて見えたので、私が「ストレスが溜まりますよ」と後部座席から声をかけたら、「誰もいないところで大声を出してわめいています」「運転も長くやっているので運転中は冷静なので大丈夫ですよ」と話していました。運転手が一般の車にいちいち腹を立てていたら、確かに仕事として務まらないでしょうね。私は運転しないので分かりませんが、運転中に他人の運転に腹を立てる人は結構多いようです。たまには運転手同士が争いになったりしますが、警察官には運転のマナーが悪い人の取り締まりもしっかりやってほしいところです。しかし、最近は少子高齢化で民間企業と同様に警察官も人材不足のようです。報道では自衛隊も人材不足で定年延長や退職者の活用も検討されているようです。どうやら最近は自衛隊の仕事も厳しくて、危険性もあり、今の若い世代にはそれほど人気がない職種のようです。国防や災害救援を担う人材が不足することは、国家にとっても決して好ましいことではないと思われます。将来、もっと人材不足が深刻な時代になりますので、様々な業種においての人材をどのように活用していくか、国や都道府県としても真剣に考える必要があります。

文章

匿名でブログを始めて累計投稿が10年くらいで3,400件くらいになりますが、公開するようになってから自由に書きたいことを書けないもどかしさはあります。新聞の投稿などは比較的自由な意見が掲載されていますが、私としては職務上なるべく新聞への投稿も控えています。文章を書くのは特に苦痛ではありませんが、適当なテーマが出てこない時に、時々投稿を休むことがあります。ブログなので読んでくださる方は少ないと思いますが、自分では日記のつもりで備忘録として書いています。作文は小学校の頃から大好きでしたので、全国の作文コンクールで入選したこともあります。子供の頃から読書が好きだったわけでもありませんが、文章力が身に付いたのも手紙を書くことが多かったからだと思います。作家のようにフィクションを書くセンスはありませんが、今でも文章を書くことは人前でしゃべることよりも好きですし得意です。もっと自由に言いたいことを文章に書ければいいのですが、職業柄、影響もあると思うので出来る限り表現が偏らないようにいつも注意しています。さて話は変わりますが、サウジの記者が殺害された報道をはじめ、世界の独裁国家では未だに表現の自由が保障されているとは言えない状況です。それを考えると、戦後の日本は表現の自由も保障されており、現代の我々は本当に恵まれていると思います。

チョイ乗り

小学生の頃、通学は4キロの道を1時間くらい掛けて歩いていました。時々、朝寝坊をした時は途中の親戚の家までコッソリ子供自転車で行き、残り1キロを歩いたりしていました。当時は子供自転車など田舎では贅沢品でしたが、祖父がたまたま北九州へ出稼ぎに行って土産に送ってくれたものです。しかし当時、世の中に雨に濡れない子供でも乗れる一人乗りの車(現在のチョイ乗りのような車)があったら便利だなぁと、免許が必要という考えもなく、小学生の頃からいつも思っていました。時々、街を走る一人乗りのチョイ乗り車を見ると、子供の頃の憧れた車にとても懐かしさを感じます。是非一度乗ってみたいのですが、都会は車も多く、家族も反対するでしょうから無理でしょう。しかし、おもちゃのようなチョイ乗りはいつ見ても憧れを感じます。ただ通学が面倒臭くて、通学が何とか効率よくならないものかと、道草ばかりしていた子供心に発想を抱いただけなのですが、子供時代の思い出にチョット浸りました。

2018年10月15日月曜日

心得

このところ週末は大体、鎌倉へ行くことが多いのですが、昨日も、曇り空の中でも鎌倉の有名なお寺は参拝客で溢れていました。中でも目立つのが外国人観光客の多さです。観光ガイドさんもしきりに外国人に寺院のことを説明していました。いろんな寺院を廻っていますと、殆ど人が訪れない寺院もたくさんあります。有名な寺院は黙っていても人が集まり賑やかですが、閑散とした寺院は静かなものです。先日、誰もいないお寺に朝から出掛けて御朱印をもらったのはいいのですが、参拝する時に本堂の板張りの階段をうっかり土足で踏んでしまったら、お寺の住職から「帰れ!」と怒鳴られてしまいました。私も吃驚したのですが、睨みつける住職もかなり不満のようでした。確かに参拝は厳粛な心で行うべきで、住職から見れば参拝の心得が常軌を逸していると思われたのでしょう。このような経験は初めてでしたので、参拝した後も不快な気分が残りました。慣れない参拝をしていると、自分の不用意さで恥をかくこともあります。お寺を守る側からすると、参拝客でも非常識な行動は許しがたいのは当然だということです。「人の振り見て我が振り直す」ではありませんが、これからは良識ある参拝者から学ぶよう心得たいと思います。

2018年10月12日金曜日

イタリアの村

今回、地方の話をしましたのは、私の好きなTV番組で「小さな村 イタリア」をもう何年も見続けているので、日本より国土の狭いイタリアの数多くの村が衰退していないのを不思議に思ったからです。イタリアには何百、何千の村があるのか分かりませんが、村自体がコンパクトで、昔ながらの一次産業が世代を超えて生き続けているからです。日本もイタリアの村をモデルに出来ないものかと、いつもテレビを見ながら思う次第です。昼間は、若者は働き、高齢者は日向ぼっこか高齢者同士でトランプなど興じているし、夜は集まって歌ったり、踊ったり、国民性の違いはありますが、日本も私たちが子供の頃はイタリアと少し似ていたように思われます。日本でも、ふるさとに魅力を感じれば、ふるさとに住みたい人は多いはずです。

地方の話

近年、ふるさと納税など地方創生の論議は活発ですが、どうも将来の地方経済は少子高齢化が加速する以上、このまま行くと更に厳しくなるような気がいたします。かつて大分県でふるさと一品運動が盛り上がり、地方経済の象徴的存在になったことがありますが、最近はそのような話題も少ないようです。私自身も地方出身者ですが、ゆくゆくは自分の故郷へ戻りたいかと言えば、空き家と高齢者ばかりの故郷には魅力を感じないのでノーでしょう。また主たる産業も仕事も無いところに、将来のある若者が定着しないのも当然です。座して衰退するのを待つだけかと申しますと、まだまだ改善の方法はたくさんある筈です。国としても地方自身もまだ産業政策や農地改革も含めた戦略的な創意工夫が足りないのではないでしょうか。6年前に帰郷した時、役所勤めの同級生が「自分たちは恵まれているけど、田舎に残っている他の同級生の生活は厳しいので気の毒だ」と話していました。日本の経済規模は何十年前からすると大きく膨らんでいるのに、地方と中央の経済格差は年々広がるばかりです。効果的な対策が打たれなければ、日本列島の山間部を含めた地方の大部分は、おそらく50年後には人の住まない過疎地として衰退していくでしょう。国には安全保障上もそうならないことを期待する次第です。

2018年10月11日木曜日

市場の動き

2、3年前から日米株式の動きを静かに観てきましたが、この1、2年のNYダウ、ナスダックの動きは異常とも言える上昇基調でした。当然、日本の株価も米国株に反応しますので、国内企業業績の好調さとともに日経平均も上昇してきました。「山高ければ谷深し」で、米国株の異常な高値はバブルのような気がしていましたので、何れどこかで大きく調整が働くだろうと予想していましたら、案の定、早朝に米国市場の暴落のニュースが飛び込んできました。近年、国内外の株式市場も投機的な短期売買が激しく、安定的、長期的な投資としての株式市場の物差しが機能しなくなっているのが現状ではないかと思われます。昨今の上場企業による上場廃止は、市場の混乱や企業経営におけるコーポレートガバナンスが弱体化しつつあることへの危惧の表れの一つとも考えられます。さて、今後において懸念される米中の貿易戦争が次第に収束するのか、最悪、外交問題にまで発展すると関係が更に悪化する場合もあり得るので、今後の外国為替相場および株式市場の動きには充分注意が必要と思われます。

2018年10月10日水曜日

5G前倒し

先日のニュースで、政府が5Gの前倒し推進には大賛成です。音声や画像や文字のビッグデータは秒進分歩で蓄積されますので、早ければ早いほど認可が必要です。IoT時代が急速に進みますので、大量の機器が連携するには5Gのスピードが望まれます。放送と通信の融合もあっという間に進展するものと思われます。是非、メーカー各社にはお年寄りに使い易いハードウェアを開発してほしいものです。

2018年10月9日火曜日

巡礼

三連休の日曜日、昨年から続けている鎌倉三十三観音巡りに出かけてきました。10月には珍しく30度を越す真夏のような猛暑日でしたが、修行にはちょうどいい暑さだと思いまして、時折水分を補給しながら廻りました。先日、三十三観音巡りを結願した知人の話では、1日に5~15箇所を廻ると聞いて、自分はまだ修行が足りないなと反省して、本日はこれまで1日3箇所のノルマを6箇所にしました。三十三箇所の観音様のあるお寺巡りですが、参拝に当たりそれぞれの住職や他の巡礼者から色んなことを学ばせてもらう気がいたします。数年前に私の家族が御朱印帳を持参してお寺参りをしていたので、私も真似て昨年から鎌倉三十三観音巡りに御朱印帳を使用するようにしています。なぜ寺院巡りを始めたかと申しますと、地方の高校時代の友人が四国八十八箇所巡りを敢行したという話を聞いて、刺激を受けるとともに自分も近場で同じようなことを出来ないかと考えたのです。調べてみてたまたま鎌倉三十三観音巡りを知ったのです。私もあと1日か2日くらいで鎌倉観音巡りは結願する予定ですが、知人はさらに坂東三十三箇所巡りを始めたという話です。これまでよりもっと過酷な巡礼のようですが、知人のその姿勢と行動力にはただただ頭が下がります。四国八十八箇所巡りが如何に大変な修行かが実際に近場を巡礼してみると良く理解できます。

2018年10月6日土曜日

感謝その2

「不良にならなくて良かった」高校を卒業して実家を離れる時に祖母が話した一言です。それ程、孫の子育てに自分たちの人生を賭け、情熱を捧げたということでしょう。祖父母の子育ては素晴らしかったと今でも私は思います。かつて村長もして村中で知られていた祖父は、芸術文化の教養にも長けて、村に本屋も無いのに、どこから持ってきたのか家では始終読書をしていました。祖母は満足に教育を受けていないので、文字の読み書きも出来ないにも関わらず、人間的に極めて賢く、どこで仕入れたのか人生訓を述べる人でした。二人とも共通しているのは教育に大変熱心だったことです。私が学校時代に表彰された様々な賞状を全て自宅の壁という壁に貼っていました。嬉しかったのか、自慢したかったのか分かりませんが、おそらく血を分けた孫の成長が可愛くて仕方なかったのだろうと思います。幸いにも不良にならなかったので、この歳の今でも祖父には感謝しきれないくらいです。

2018年10月5日金曜日

感謝

昨日は、私が最も尊敬する弊社の相談役と久しぶりにお会いする機会がありました。御年齢は83歳ですが、お世話になってから23年になります。考えてみると、私の現在の年齢よりもずっと早くから弊社のお力になって戴いた事になります。私自身、何も大した感謝が出来なかったことを今になって後悔しています。先日、80歳で御退任された顧問も25年間位のお付き合いをしてきました。他にも何人か長年にわたり顧問をお願いして来た方がいますが、いずれも、かつて若輩の私を長年にわたり陰日向で御支えくださいました。経営者には常に遠慮なく直接意見を言える立場の人を置くというのが私の経営手法です。しかし、そんな私もお世話になっていた頃の顧問の年齢になりました。これからは世の若い経営者のアドバイザー役として、微力ながら時々お手伝いが出来ればと考える次第です。その前に、弊社を更に健全な会社にする事が目下の役目でもありますので、もう暫く頑張りたいと考えています。

2018年10月4日木曜日

在りし日その4

現在は日本も好景気になり、全業種において人手不足でどの企業も新規学卒者の求人に苦心しているのが現状です。実は私が大学を卒業して就職する頃はオイルショック後の超氷河期で、名だたる大企業はほとんど求人を控えていました。また全国の中高の教職員採用もほとんど求人がなかったので、その後一旦就職して、小学校教員免許の再取得のため大学の通信教育に入学することにしたのです。どこの会社でもいいから、何とか就職先を見つけて採用通知を受けたのがM道路でした。ところが卒業間近になって必修科目をひとつ落としてしまったので、M道路には事情を話し、採用を取り消してもらいました。1年の留年期間は日本IBMの藤沢工場のアルバイトに就いて夜学に通って無事単位を取得し、翌年再度M道路に応募したら採用となりました。現地に赴任してから聞いた話ですが、北海道支店で私が再度入社するのを待っていたようです。という事で一旦終わりますが、この留年があったお蔭で今の妻と知り合うことになるのです。

2018年10月3日水曜日

ビジョン

今日も勉強になりました。丸の内のホテルで素晴らしい講演を聴いたのです。これから先は主催者名を伏せておきますが、講演者のレベルが高いことの重要性も分かりました。さて話は変わりますが、私は松下幸之助氏やトヨタ自動車様のような日本的な経営が大好きです。しかし、バブル崩壊後に株安、円高に苦しんだ日本企業は三重苦に見舞われました。あれから25年で長年の三重苦が取れて漸く三重楽となった訳です。そのお蔭か分かりませんが、日本企業は自己資本比率の上昇と無借金経営に至った訳です。しかしながら、いつの間にか技術を海外に持って行かれたのです。何故そうなったかと申しますと、そこには目先の利益に追われて長期ビジョンが無かったのです。失礼ながら、現在の日本社会全体にもその点が欠けているような気が致します。すべからく、法人にも個人にもビジョンが必要だと思います。

2018年10月2日火曜日

在りし日その3

「医者になったら?」これは生前の父が、上京して間もない頃の私に外食をしながら問いかけた言葉です。自分の子供の能力も知らず無責任に放つ言葉に内心呆れてしまいましたが、父はおそらく、自らが長年事業家として歩んできた道を不安定だからと、多分私に医師になることを諭したのでしょう。しかし、肝心の私にはその真意が伝わりませんでしたし、父の発言は傍観者的に思えました。当時の私は地方で教職の道を歩む計画でしたので、敢えて父にはそのことは話しませんでした。実は食事に同席していたのが、当時からあまりよく思っていなかった継母だったからです。何が行き違いだったのか、変わった家族関係でもあり、最期の最後まで私等と冷たい関係が続いたのです。おそらく私等が実母との付き合いをやめないことへの仕打ちだったのではないかと思います。血縁関係は子供にも微妙に感じるものです。「親に二の舞は踏まない」という私の意志は子供の頃から培われたような気がいたします。

2018年10月1日月曜日

在りし日その2

「産んであげたのだから」この言葉は母の生前中によく聞かされました。それだけ子供に対する親心が母には亡くなるまであったのでしょう。私は1952年、福岡県田川市(当時は田川郡)という処で生まれました。父が戦時中の学生時代に福岡に住んだことが縁で母と見合い結婚することとなりました。後に性格の不一致で私を産む頃には別居状態だったのですが、親戚から産んだほうがよいとの事で迷った挙句に私を出産したらしいのです。結果的には幼少時は一時母子で暮らすこととなりましたが、その後、親権の関係で子供を手放さざるを得ず、熊本県天草市(当時は天草郡)の父の実家に預けられたのです。幼少時は母方の祖父にも可愛がられた記憶はありますが、結果的にはその後ずっと父方の祖父母と暮らすことになりました。無事、5、6歳から高校卒業まで過ごせたのはすべて父方の祖父母のお蔭です。子供は誰に育てられるかで動物と同じように懐くものです。父と母とは同じ屋根の下で暮らすことは出来ませんでしたが、祖父母の元で育ったその人生の方が却って良かったように思います。