2018年2月13日火曜日

平昌五輪

メダルはいつ取れるのだろう?と過去の実績から多くの日本人が今か今かと期待していたはずです。連休中は平昌五輪のLIVE放送に釘付けでしたが、昨夜、高梨選手のノーマルヒル銅メダル決定の瞬間までは中々眠れませんでした。同時に男子モービルや1500Mスケートのメダル獲得のニュースが入り、一安心で床に就きました。考えてみると、大勢の日本人や支援者の期待を背負った、4年に一度の五輪におけるアスリートたちに掛かる重圧の大きさは、我々の想像の域を遥かに超えます。これまで自分を支えてくれた周囲の期待に応える責任感の重さを、幼少時から背負わされる人生を歩んでいますから、可哀想と言えばその通りです。アスリートに幾ら天才的な能力があっても、コーチやスタッフの支援なしではメダル獲得という栄誉を達成することはできません。どちらかと言うと、彼らは周囲が作り上げたアスリートというひとつの人間像なのかもしれません。企業も同じようなもので、多くの関係者が作り上げたものです。彼らのインタビューを聴いていて、周囲に感謝することを逆に教わるような気がいたします。

今回の平昌冬季五輪は朝鮮半島をめぐる政治色が混在した様相を感じましたが、五輪というスポーツの祭典も、歴史が変わっても中々政治とは完全に切り離せないということが判明しました。かつて創設者クーベルタンの言った「オリンピックは参加することに意義がある」というのは、スポーツを通しての世界の平和を願ってのことだと考えます。今回の寒冷地での開催は別として、近年、選手が閉会式前に帰国するのは止むを得ないとしても、入場式くらいは選手たちが全員揃ったほうが4年に一度の祭典らしいと思います。自分のペースで自分の試合に臨むだけの参加ならば、私にはメダル獲得が目的だと映ってしまいます。そのようなことは無いでしょうが、スポーツの世界も人づくりの一環で、団体行動やチームワークの精神を幼少時から育む必要もあります。周りが個人の能力に幼少時からちやほやばかりして、あまり気を遣い過ぎると、本人は勘違いして良識を踏み外すこともあり得ます。アスリートの指導者も人づくりを考えると、人物として人格的要素が備わっていることが必要だと思います。

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